波尾の選択 傑物たちの至言に触れて

名言を超えた至言。生を突き詰める傑物達。至言に触れて触発された想いを綴ります

傑物の至言-37 カズオ・イシグロ

 自分がどうして小説を書くようになったのかと振り返ってみると、自分にはない記憶を何とかして書き留めるということです。

ー想像力を羽ばたかせて書くのでしょうか

 それほど羽ばたかせませんね。私はかなり抑制の利いた作家です。

 一揃いのテーマが先にあって、それをかなり集中したやり方で探求します。一つや二つのテーマを完膚なきまでに探求するのです。

 それで自分の想像力を稼働させて「これが君の仕事だ。どうだ、何かできるかね」と想像力に聞くのです。

 『知の最先端』大野和基インタビューより引用

 

知の最先端 (PHP新書)

知の最先端 (PHP新書)

 

 

 作家が如何にものを考えているか、ほんの一例の発言。

批評家、評論家は自らの定規をかざして測りながら論じていれば済むが、作家はその定規そのものを問う。

 

 想像力とか、動機(モチベーション)が日常単語になってしまっているので、それぞれの「深度」が窺い知れない言葉になってしまっている。

 

2017年ノーベル賞文学賞を受賞し突如として注目を集めた作家にみられがちだが、

1989年『日の名残り/The Remains of the Dayブッカー賞を受賞し、

1993年 James Ivory(ジェームズ・アイヴォリー)監督、Sir Anthony Hopkins(アンソニー・ホプキンス)、Emma Thompson(エマ・トンプソン)主演で映画化されアカデミー賞8部門にノミネートされた時から読んできた私には長崎産まれの日本人であってもイギリス在住の外国作家という認識だ。

 

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

 

 石黒一雄ではなくカズオ・イシグロと表記され、現在はイギリス国籍。それは日本が二重国籍を選ばせない制度のせいだ、と言う。

長編では、

1982年『遠い山なみの光/A Pale View of Hills』

1986年『浮世の画家/An Artist of the Floating World』

を除いて日本以外が舞台であり日本人がほとんど登場しない。

なによりも小説は英語で書かれ、日本で出版されているものは翻訳家が介在する。

 

  しかしそんな事実で説明がつかぬ重要な小説家だ。

普通に日本で生まれ育った作家の持つ感覚と全く異なった位置からの視線で森羅万象を観ている作家。

 

 構えが大きい。

 それは宇宙とか地下帝国とかそういう単純な大きさのことでなく、カズオ・イシグロが描こうとしている対象が大きいと感じるのだ。

いつも我々の周りに存在するようで存在しない空間設定がなされ、しかしそれはカズオ・イシグロの向かう先の為の「設定」に過ぎない。

 

 大きくて、厳しい。

語られる内容は理解困難なものではないが、厳しさを纏っている。

 

 そして、そこはかとなく哀しみを底に湛えているように感じてしまう。

それは人間全体への視線からくるのか?

それとも失われていくものへの?

生きていることそのものへの?

 

 大きくて厳しい難攻不落の要塞が哀しみを帯びている。

相当、個人的な感じ方かもしれない(いつもそうか)。

 

 凡人の我々が想像も出来ない緻密な構成で作品が描かれ、それは文字通りの表ヅラとは異なる世界を浮き上がらせる。

 

 これほど大きく刺激的で緻密、頑丈な小説を書く人はあまりいないように思える。

 

 枠組が大きいと、ややもすれば少し粗さがあったり、刺激さはあっても緻密さに欠けたり、構造的に破綻をきたしている小説が多い(それでもそのどれか一つでも達成していれば、私は愛して読むことは厭わない活字中毒なのだが)中で、これ程のレベルで毎回作品を構築する想念の高さの頂きは仰ぎ見ても視えない。

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

 

 

 今回、カズオ・イシグロを取り上げるにあたり、いまのところの最新作『忘れられた巨人』を読み返している。

原題はBuried Giantつまり『埋められた巨人』が正しい。

忘れられた巨人は、今作の主題が「記憶」なので遠からずではあるが、少しネタバレ的な題ではないか。

 直訳の方が作者の作品に相応しいと思う。

 

 物語が進むにつれて、じわじわと問いが突きつけられる。

 カズオ・イシグロの小説はいつもそうだ。

それは娯楽、単純な感動を許してくれない。

それなのに読まずにいられない。

 

 記憶とは何だろう?

脳の海馬が過ごした時間に得たものを収めておくが、それとて産まれ出た瞬間から総てを記憶しているわけではない。

 自ずと過去は美化され、懐かしみを抱くと生きてこられたことに頬ずりしたくなる。

 そうして脳が自己制御してくれるものが記憶なのか?

削除されてしまった方が記憶なのか?

本当に削除されてしまったのか?

ゴミ箱の底でじっと潜めているだけなのか?

ゴミ箱も自分の脳内にある限り完全消去されてはいないはずだ。

 それら取り出そうとされない記憶も含め、それらの総体が自分自身なのではないか?

 ピアノは一回でも弾かれた曲を記憶していると誰だったか、ピアニストか調律師の発言を読んだ記憶がある。

 

 そう、記憶は人間だけのものではない。

有史以来とされる前からの生きとし生けるものたちの総ての、言語化されていないものを含め、総ての記憶の総体が歴史なのだとすればそれを観ることが出来るの者はいない。

 

 果たして何を埋め、何を捨て、我々は生き長らえてきたのだろうか?

 埋められた記憶の方にこそ、きっと忘れてはならないものがある。

 確かなことは、記録された事柄だけが「決して」記憶、歴史ではないということ。

 

  カズオ・イシグロの小説は普段考えも及ばずに過ごしている根源的な場所へ連れていかされる。

 そこで何を想い、何を掘り起こすかは一人一人に課せられることだろう、と言われているかのような。

 

 

 

カズオ・イシグロ

1954/11/18- 現在64歳

小説家

 

 

★こんなに有難い至言に遭遇させて頂きながらも、敬称略で書かせて頂くことをご本人、関係者にお詫び致します。

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『けだし名言、いや至言』

名言、いい言葉は、意外に誰でも口にすることがある。

話の流れでぽっと出る。日常的にもままあること。

それはそれで良いのだけれど、そのいい言葉はその瞬間だけの実感だったり、

はたまた誰かの借り物だったり、ということも多い。

 

私が紹介したいのは、一瞬の「名言」ではなく、

その人間の人生に裏打ちされた、その人間の奥底から到達した言葉

それを「至言」と呼ぶ。

ただの名言、格言、金言ではなく、本質に迫る言葉が『至言』。

ただの有名人、著名人じゃなく、怪物級、規格外の人物が『傑物』。

 

その『傑物』の『至言』が放たれ、凡人にも何かが触発される。

泡立ち、鳥肌が立つ瞬間。そこから目を逸らすのを止めず考えてみる。