波尾の選択 傑物たちの至言に触れて

名言を超えた至言。生を突き詰める傑物達。至言に触れて触発された想いを綴ります

傑物の至言-47 安部公房

日本では、あの作品の批評で、ラストが“希望のはじまり”と受けとるものがあった。しかし、そういう次元で割り切られたら困るんだなあ。
もし、そんなふうに割り切れてしまうのなら、文学の世界、その存在理由が意味をもたなくなるじゃないか。小説はいらなくなり、批評だけあればいいのではないですか。
文学は自分に必要なのか、なぜそうなのか、という問いは、常に発せられる必要がある。しかし、それは答えをすぐ出すことのできることではないし、答えたとたんに意味がなくなる。けっして答えは表に出てこないはずです。

「国家からの失踪」(1967年)より

 引用文の冒頭「あの小説」とは代表作『砂の女』のこと。
文学者、小説家は批評家じゃない。
 これは52年経って、ますます重要な言葉だ。

 

砂の女 (新潮文庫)

 


小説、映画などの「筋、ストーリー」と皆が呼ぶものは謂わば「粗筋」だ。
ましてや昨今の「泣ける、勇気・元気を貰った」といったキャッチコピー、それと同レベルの批評があればいいのなら、わざわざ新たな小説、映画は創作される理由がない。
「筋」「物語」の相違。「粗筋」「作品」の相違。
 何かが起こり、途中で障害が(わざわざ)起きて解決され、めでだしめでたし、ならば「筋、粗筋」で結構。

 多くの日米のテレビドラマ、映画、小説にはそういうものが存在しファンも存在する。
 それはそれで経済行為として「求める人」が金と時間を「提供されるもの」に消費する。「スッキリした」「気持ちがいい」と思うのは自由だ。遊園地やジェットコースターで楽しむことと同じ。
それがエンターテインメントというものだろう。

(真の)文学、映画、音楽つまり藝術はエンターテインメントではない。
「解決」はしてくれない。問われる。問いを突きつけられる。

 なんだよ、金と時間遣ってそんな難しい、普段背けていたいことを言われたかないね、と思うのも自由。
 人生いろいろ、人それぞれ。
人生を消費で終えるか?問いに向き合いたいか?人生観の問題なので、個人の選択に委ねられる。
 ただ、早死にを別としてずっと楽しいことばかりを消費して終えられるほど「人生」て簡単じゃないようだ。
 どんな出方をするかもそれぞれだが、何十年も生きていると、ふと立ち止まったり、振り返りたくなったり、ちょっと待てよ、とか、そもそも本当は・・・など自問する時間が出現してしまうものだ。
「そんなこと一回も一瞬もねぇよ、バーカ」と言い切れる方がおられたら羨ましい限りです。本心から。

 それでも芥川賞直木賞という二種が存在し続けるように、一応そこはエンターテインメントと純文学(この言葉も何だかねぇ)を峻別すべしということを踏ん張っている人達もいる。
(ただ、芥川賞受賞作の中に首を傾げたくなるものもあるし、直木賞受賞作の中に芥川賞を与えるべきだったんじゃねいかと思わされるものもあ理、選考基準にはしばしば異を唱えたくはなるが)

 

壁 (新潮文庫)


1951年「壁 - S・カルマ氏の犯罪」芥川賞受賞(なんの疑問もありません)
以降、劇作家としての作品が多くなる。
1958年 戯曲『幽霊はここにいる』岸田演劇賞受賞
1960年 脚本『煉獄』がテレビドラマ化。芸術祭奨励賞受賞
    『おとし穴』として映画化監督:勅使河原宏
1962年 『砂の女』読売文学賞受賞。世界30ヶ国以上で翻訳され、    フランス最優秀外国文学賞受賞。     監督勅使河原宏により映画化されカンヌ映画祭審査員特別賞受賞
1964年 『他人の顔』監督勅使河原宏により映画化。音楽:武満徹(→傑物の至言-16「武満徹」
1967年 『燃えつきた地図』ニューヨーク・タイムズ紙外国文学ベスト5に選出。監督勅使河原宏により映画化。音楽:武満徹
1972年 『箱男』
と長編小説を発表
1973年 演劇集団『安部公房スタジオ』を立ち上げる

 

他人の顔 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)

箱男


 安部公房がなぜ不条理な設定の作品ばかりを書き続けたのか。
なぜいまだにフランツ・カフカ(Franz Kafka)アルベール・カミュ(Albert Camus)が読み継がれるのか。
 問われたい人も大勢いるようだ。
この星はまだ少し大丈夫なのかもしれない


安部公房
1924/3/7-1993/1/22 (享年68歳)
作家(小説家、劇作家)、演出家
                    記*波尾哲