波尾の選択 傑物たちの至言に触れて

名言を超えた至言。生を突き詰める傑物達。至言に触れて触発された想いを綴ります

傑物の至言-39 Ivo Pogorelich(イーヴォ・ポゴレリチ)

私の演奏では無作為に出て来る響きはひとつもありません。すべての響きはまず私の頭の中に現れ、思考を続けてから演奏されます。

 これは「カンフー」です。カンフーの名人は煉瓦を割るとき、手を降ろす前にどれだけの力が必要で、どの角度で煉瓦を割るべきか、また煉瓦を割るときと材木を割るときとはどう違うのかを知っているに違いありません。

 同じ道理で、ピアニストとしての私の技量は各種の音色をつくり出す知識と研究に基づいて、絶えず練習を続ける事によって支えられているのです。

『ピアニストが語る!現代の世界的ピアニストたちとの対話 増補版』より

 

 普通のクラシック・ファンにはポゴレリチ事件」の主役として有名。

少し詳しいクラシック・ファンには

20歳の時に子連れの43歳のレッスン教師と結婚した変わり者

譜面を無視した「奇抜な演奏」をするピアニスト

ステージの上でじっと何分も弾かない時間が多い変人

反逆者

キャンセル魔

などのレッテルが貼られているようだが、紛れもなく現在最高峰の現役ピアニスト。

Complete Recordings

Complete Recordings

 

 

 まず、「ポゴレリチ事件」の事象を書けば、

1980年 ショパン国際ピアノコンクールの2次予選において、Pogorelich(ポゴレリチ)の演奏が従来のショパンピアノ曲演奏解釈と著しく違って「奇抜すぎる」と予選落ちした際、審査員の一人Martha Argerich(マルタ・アルゲリッチ)が「Pogorelich(ポゴレリチ)は天才。彼の演奏を評価できないような審査員たちと大会の審査を続けられない」と言い放ち帰国してしまった。

 結局Pogorelich(ポゴレリチ)には審査員特別賞が授与されたが、Martha Argerich(マルタ・アルゲリッチ)は2000年になるまで、本コンクールの審査員に復帰しなかった。

 あのArgerich(アルゲリッチ)が天才と評価し、審査員を辞退してしまうほどの逸材はどんなピアニストだ!?ということで一躍注目されるようになった。

 冒頭に引用したインタビューが掲載されている書籍に本人からことの経緯が語られている箇所を読むと、

1978年 カサグランデ国際コンクール第一位(イタリア)

1980年、モントリオール国際コンクールで満場一致の優勝(カナダ)

というキャリアに続いて、ショパン国際ピアノコンクールに出場エントリーしていPogorelich(ポゴレリチ)の元にモスクワ音楽院の人間が「ショパン国際ピアノコンクールを辞退しろ。(出場して)我々を妨害するようなことをしなければ、1982年のチャイコフスキー国際コンクールの一位と『交換できる』」と言ったという。

 映画か!?コメディか?

 

 Pogorelich(ポゴレリチ)クロアチア(旧ユーゴスラビア)生まれだが、11歳の時からモスクワでピアノを学んでいた。モスクワ側の意図は、

あのときのコンクールの第一位は、実際はあの年の4月にソ連によって「決定」されていました。

私がファイナルに残ることを妨げたのは私の音楽的解釈ではなく、審査員同士の政治的な要因によるものでした。(審査員の一人)ドレンスキーは私に0点をつけ(満点は25点)そのほかのソ連支配下にある共産主義国家の審査員も0点か1点しかつけず、西欧側の審査員はそうではありませんでした。

『ピアニストが語る!現代の世界的ピアニストたちとの対話 増補版』より  

 一次審査の演奏ですでにこんな状態で二次予選リストからも漏れていたが、モントリオール国際コンクールの審査員でもあった審査員が不審がって指摘したことで、二次予選リストに復活した。

 一次審査の演奏審査にArgerich(アルゲリッチ)は参加しておらず、二次予選からの審査だったから、当初のリストのままならArgerich(アルゲリッチ)がPogorelich(ポゴレリチ)の演奏を聴く機会すらなかったことになる。

 形式的に二次予選へ進んだが、ソ連側の審査が一次と同様だったために予選落ちとなり、Argerich(アルゲリッチ)の抗議、審査員辞退へと発展したのだ。

 Pogorelich(ポゴレリチ)は二人の人間の勇気ある発言に救われたことになるが、だからと言って簡単に今の位置に辿り着いたわけじゃない。

 

私がラフマニノフの《楽興の時》の演奏を準備していたとき、第二曲のあるフレーズにずっと満足ができませんでした。五年の歳月を費やして、やっとうまく弾けるようになりました、そのフレーズのためにしばしば八時間も続けて練習したものです。

『ピアニストが語る!現代の世界的ピアニストたちとの対話 増補版』より 

 

これだけの追求をしていても、いまだに「変人」「反逆者」扱いする見方も根強い。

 

 映像を観ると、Pogorelich(ポゴレリチ)の大きな両手がピアノに落ちる。音が静寂だった空気を振動させる。

ピアノを弾くというよりもPogorelich(ポゴレリチ)の身体、指先、爪先がピアノによる音楽という生命体を組み立てている現場に立ち会っている感覚を持つ。

 身体が大きく手が大きく、ときに子供用のピアノを軽く触っているような余裕すら感じる指先の動き。しかし、目を瞑り、意外にも感情たっぷりに上体を前後左右に揺らしながらも、肘から先はPogorelich(ポゴレリチ)の全身全霊からの莫大な鍛錬と知性から選ばれた一点がピアノに触れていく。

 究極の一音を鳴らされる。その連続が音楽を産んでいる。

 

一音一音が極めて明確に粒立ち出現する。

その連なりが正確無比なペダリングも合わさり傑作の音楽へと結晶する。

 


Ivo Pogorelich - Chopin - Piano Sonata No 3 in B minor, Op 58

 

 

「音楽に身を委ねる」弾き方をする奏者が多いが、Pogorelich(ポゴレリチ)は極めて冷静に、異常なまでに時間を掛けた譜読み、鍛錬の結果の、その時点で最高のPogorelich(ポゴレリチ)のピアノ演奏を行う。

 

 確かに他のピアニストの解釈よりも遅かったり、強弱が逆という指摘通りの演奏の部分もある。

 

とくに速度……、実は私はこの言葉が嫌いなんです。私にとってのそれは、単なる「速度」(speed)はではなく、「脈動」(pulse)という意味が含まれています。生の演奏では、音の長さや空間の中での伝達を、より自由に、より多彩に、より個性的に、より生き生きと表現できます。録音スタジオ、コンサートホール、屋外のステージ、場所によって演奏は変わり、それぞれに理由があります。

2016/12/02 「ポゴレリッチ来日直前インタビュー!」KAJIMOTO HPより

 

 譜面を書いた作曲家が現存していてPogorelich(ポゴレリチ)の演奏を聴いた時、激怒するのか?賞賛するのか?

それは分からない。

 そもそもクラシックの譜面と言えども作曲家によって描き方がまちまち、一音一音に注釈をつける者から、速度指示を全く書かない者まで多種多様だ。

 作品は作者のものか?公開されたら聴き手、演奏者に委ねる、という考え方も存在している。

 ショパンが自作の譜面について口を開くことはもう無い。

ピアニスト達は自分の人生を賭けて譜面を読み、演奏することで責任を全うする以外ない。

 Pogorelich(ポゴレリチ)はどんなにネガティヴなレッテルを貼られようが現在も世界中で演奏会は満員になる。

 私はPogorelich(ポゴレリチ)のほぼ総てのCD、DVDを購入しており、何度もその演奏に埋没したいと希求する。

 生半可な人生ではない傑物Ivo Pogorelich(イーヴォ・ポゴレリチ)の演奏は生半可ではない。

イーヴォ・ポゴレリチ・リサイタル [DVD]

イーヴォ・ポゴレリチ・リサイタル [DVD]

 

 

Ivo Pogorelich(イーヴォ・ポゴレリチ)

イーヴォ・ポゴレリチ - Wikipedia

1958/10/26ー 現在60

ピアニスト

 

★こんなに有難い至言に遭遇させて頂きながらも、敬称略で書かせて頂くことをご本人、関係者にお詫び致します。

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『けだし名言、いや至言』

 

名言、いい言葉は、意外に誰でも口にすることがある。

 

話の流れでぽっと出る。日常的にもままあること。

 

それはそれで良いのだけれど、そのいい言葉はその瞬間だけの実感だったり、

 

はたまた誰かの借り物だったり、ということも多い。

 

 

 

私が紹介したいのは、一瞬の「名言」ではなく、

 

その人間の人生に裏打ちされた、その人間の奥底から到達した言葉。

 

それを「至言」と呼ぶ。

 

ただの名言、格言、金言ではなく、本質に迫る言葉が『至言』。

 

ただの有名人、著名人じゃなく、怪物級、規格外の人物が『傑物』。

 

 

 

その『傑物』の『至言』が放たれ、凡人にも何かが触発される。

 

泡立ち、鳥肌が立つ瞬間。そこから目を逸らすのを止めず考えてみる。